2018年6月17日日曜日

タクティクスオウガ名言分析と考察。二人のランスロット

前回は、オウガシリーズの概要、キャラクター達の名言を中心にまとめました。
今日は、ストーリーのキモと言える「二人のランスロット」を中心に考察と分析をまとめてみます。
前回のタイトルである「民の権利」について、大きなキーワードが沢山あります。


(前回の続き)
そして、デニムは決断を迫られるのです。
虐殺することで「解放軍のリーダー」になるか。
虐殺の汚名という濡れ衣を着せられても、自分の本心に従った「真のリーダー」の道を歩むのか。

虐殺に加担しなかった際の元・親友ヴァイスとの掛け合いも秀逸です。
ヴァイスがウォルスタ人の地位向上のために、主人公の代わりに虐殺に加担した背景を持ちます。

デニム「ばかな…。あんな酷い仕打ちを誰が許すというんだッ!」
ヴァイス「俺が許すッ。歴史が許してくれるッ。わずかな犠牲が同胞の未来を築くんだ」

やったもんがちなのが「歴史」であり、勝者という「正義」が都合の良いように歴史を語ることができます。


その第二章のタイトルキャプチャーも秀逸です。
Chapter-2
『思い通りにいかないのが世の中なんて
割り切りたくないから』

更にChapter-3の
『欺き欺かれて』

結末のChapter-4
『手を取りあって』
に繋がります。

……色々な経験を積んだデニム(主人公)の最終章が、「手を取りあって」というのが実に良いですね。
「民族同士の対立は本当に根深い。それでもお互いを認め合い許しあい、手を取り合うことが一番の解決方法」だ。
という意味が込められているのだと思います。

この『手を取りあって』は、オウガバトルサーガ 第7章 Let Us Cling Together (手をとりあって)という作品のメインテーマでもあります。
オウガバトル64の「オウガバトルサーガ 第6章 Person of Lordly Caliber (指導者たる器を持つ者)」も大好きなタイトル(未プレイ)です。




では、本題の「二人のランスロット」について触れたいと思います。
まず、先入観を持たずに、二人のゲーム内の台詞をお読みください。

聖騎士ランスロット
「……日増しに高まる民衆の不満を抑えきれないようだな……?」

暗黒騎士ランスロット
「所詮、バクラム人は我々とは違い劣等民族だからな。
彼らには少々荷が重すぎたということだ」

聖騎士ランスロット
「力で人を縛り付ける、そうしたローディスのやり方に問題がある、
…そうは思わないのか?」

暗黒騎士ランスロット
「縛り付けた覚えなどないな。
彼らは力で支配されることを望んだのだ」

聖騎士ランスロット
「望んだだと?」

暗黒騎士ランスロット
「そうだ……世の中を見渡してみろ。
どれだけの人間が自分だけの判断で物事を成し遂げるというのだ?
自らの手を汚し、リスクを背負い、そして自分の足だけで歩いていく……
そんな奴がどれだけこの世の中にいるというのだ?」

聖騎士ランスロット
「…………」

暗黒騎士ランスロット
「……貴公らの革命を思い出してみよ。
貴公らが血を流し、命を懸けて守った民はどうだ?
自分の身を安全な場所におきながら勝手なことばかり言っていたのではないのか?」

聖騎士ランスロット
「彼らは自分の生活を維持するだけで精一杯だったのだ……」

暗黒騎士ランスロット
「いや、違う。被害者でいるほうが楽なのだ。
弱者だから不平を言うのではない。
不満をこぼしたいからこそ弱者の立場に身を置くのだ。
彼らは望んで『弱者』になるのだよ」

聖騎士ランスロット
「ばかな……人には自分の人生を決定する権利がある。
自由があるのだ!」

暗黒騎士ランスロット
「わからぬか!本当の自由とは誰かに与えてもらうものではない。
自分で勝ち取るものだ。しかし民は自分以外にそれを求める。
自分では何もしないくせに権利だけは主張する。
救世主の登場を今か、今かと待っているくせに、自分がその救世主になろうとはしない。
それが民だっ!」

聖騎士ランスロット
「人はそこまで怠惰な動物じゃない。
ただ、我々ほど強くないだけだ」

暗黒騎士ランスロット
「……聖騎士よ、貴公は純粋すぎる。
民に自分の夢を求めてはならない。
支配者は与えるだけでよい」

聖騎士ランスロット
「何を与えるというのだ?」

暗黒騎士ランスロット
「支配されるという特権をだっ!」

聖騎士ランスロット
「ばかなことを!」

暗黒騎士ランスロット
「人は生まれながらにして深い業を背負った生き物だ。
幸せという快楽の為に他人を平気で犠牲にする……
より楽な生活を望み、そのためなら人を殺すことだっていとわない。
しかし、そうした者でも罪悪感を感じることはできる。
彼らは思う……これは自分のせいじゃない。
世の中のせいだ、と」
「ならば、我々が乱れた世を正そうではないか。
秩序ある世界にしてやろう。
快楽をむさぼることしかできぬ愚民にはふさわしい役目を与えてやろう。
すべては我々が管理するのだ!」

聖騎士ランスロット
「意にそぐわぬものを虐げることが管理なのか!」

暗黒騎士ランスロット
「虐げているのではない。
我々は病におかされたこの世界からその病因を取り除こうとしているにすぎん。
他組織に影響を及ぼす前に悪質なガン細胞は排除されねばならぬのだ!」

聖騎士ランスロット
「身体に自浄作用が備わっているように心にもそれを正そうという働きはある!」

暗黒騎士ランスロット
「それを待つというのか?
ふふふ……貴公は人という動物を信用しすぎている。
民はより力のある方へ、より安全なほうへ身を寄せるものだ」



……1995年SFCのゲームとは思えない台詞です。
正直、初プレイ時中学生だった自分には、「ウォー、聖騎士ランスロットかっこいい」ぐらいしか刻まれていなかったと思います。

……更に、後日談ですが、お師匠様にこの記事を見せた時にこう言われました。
「聖騎士ランスロットは理想。暗黒騎士ランスロットは現実。なぜ、『理想と現実』が乖離しているかを突き止めなさい」
と言われました。

んー、過去の自分は特に現在の自分もですけど、理想と現実、やりたいこととやってることは喰い違うことが多いので、時間がかかっても一つずつ突き止めていきたいです。


では、メインテーマである「民とはなにか? リーダー(王)とは何か」を二人のランスロットの台詞を考察と分析することで紐解きたいと思います。
結論から書きますが、「立場(立ち位置)によって、見え方と感じ方が異なり、人生に強い影響を及ぼす」ということだと解釈しています。

お師匠様がわかりやすい例えを教えてくれたのですが、電車に乗ってる人と電車を迎える(送る)人では見え方・感じ方が違うという例えはピッタリだと思います。

聖騎士ランスロットの「彼らは自分の生活を維持するだけで精一杯」は、「民」の気持ちを一言で代弁していると思います。
日本でさえ、増税や残業、沢山の支払いと請求書、人間関係のトラブル、家族とのいさかい……誰でもそうだと思いますが、「民」は生きることで精いっぱいです。
そして、「支配者」という立場の人達につけ込まれてしまっているのです。


一方、暗黒騎士ランスロットの
「人は生まれながらにして深い業を背負った生き物」
「幸せという快楽の為に他人を平気で犠牲にする」
「そうした者でも罪悪感を感じることはできる」
「彼らは思う……これは自分のせいじゃない。世の中のせいだ、と」

これも人間の本質に深く迫っていると思います。
誰だって「幸せという快楽」にどっぽりと頭の先から足の先まで浸かっていたいものです。
脳は快楽を追求するように出来ているのですから。

そして、「罪悪感」という植え付けられた「免罪符」を使い始めます。
「これは自分のせいじゃない。世の中のせいだ」
この免罪符こそが、自分という一人の人間の「可能性の選択肢」を「民、一般人、凡人」などの立場で縛り付けてしまうものなのです。




関連しているので、攻殻機動隊の主人公の草薙素子の名言も取り上げます。
「世の中を変えたいなら自分を変えろ。
それが嫌なら、耳と目を閉じ、口をつぐんで孤独に暮らせ」

どちらも「自分」という立場の見え方・感じ方の重要性を説いているのだと思います。


暗黒騎士ランスロットの
「秩序ある世界にしてやろう。
快楽をむさぼることしかできぬ愚民にはふさわしい役目を与えてやろう。
すべては我々が管理するのだ!」」

「貴公は人という動物を信用しすぎている。
民はより力のある方へ、より安全なほうへ身を寄せるものだ」


……この二つの台詞は、「支配者」という立場で見れば、「民を支配する」ための完璧な論理です。
何がいけないかは単純です。
私を筆頭に「快楽」というぬかるみに没頭したり、「安全・安心」を望み可能性という選択肢を他者に依存しているから、「支配」という口実=権利が生まれてしまうのです。

聖騎士ランスロットの
「人はそこまで怠惰な動物じゃない。ただ、我々ほど強くないだけ」
という台詞は、「民」の弱点を一言で代弁しているように思えます。



では、まとめの考察と分析をさせて頂きたいと思います。
私達、一般人・民衆はあまりにも弱い立場です。
頼んでもいないのに、法律はどんどん改正されるし、増税はされるし、SNSを筆頭に陰口を言われたり、車を止めれば駐禁の切符を切られるし、ごみの分別を間違えれば怒られるし……散々な毎日です。

一つの定義ですが、私達が「支配される特権」に甘んじているからではないか?
という大切なモノの見え方をタクティクスオウガは教えてくれている気がしてならないのです。

私達は日々、やるべきことやらなきゃいけないこと、してはいけないことを「善悪・規律」という物差しを使って、判断しています。
そして、無意識で「スマホに熱中したり、ユーチューブに没頭したり、ゲームにハマったり、パチンコでスッたり」やってしまうことも沢山あります。

その何気ない民達の「小さな影響」こそが、「支配者」にとっての「支配する特権」を強化してしまっていたのだなと痛感しました。

……長くなりましたので、明日も続きます。
明日は「まとめの考察と分析」をしつつ、「民の権利、自由とは?弱者とは?」を中心にまとめてみます。

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