自分の解析作業をやっていた際に思ったのですが、自分の負の要素の根幹に近いと痛感しました。
真っ先に思い浮かんだのが、「宿題嫌い」です。
学校のカリキュラムそのものと言っても過言ではありません。
小学校中学年くらいから塾に通ったせいか、学校の授業を全く聞いてなくても、テストで高得点を取れるようになってしまいました。
学校の授業は勿論ですが、特に宿題という制度が苦痛でたまりませんでした。
中でも、夏休みの宿題は本当にやってられませんでした。
わかっていることをわざわざやらされる……受験勉強や習い事で忙しいのに、大量のつまらない宿題を出される。
ちゃんとやれば一日かからない……物心ついたときには、宿題は31日に終わらせるもの。いや、効率を意識できる小4くらいからは登校日にやるようになりました。
更にずるくなってしまい、「持ってくるのを忘れました」と嘘ではない巧妙な嘘をついたりもしました。
その小学5年の担任に当たる初老の女性の先生は色々と忘れられない先生です。
初邂逅は小学校3年の時です。
初めての部(クラブ)活動を選ぶ際に、子役だった経験を活かして、演劇部に入りました。
驚いたのが、自分以外が女性女性女性!の部活動でした。
当時は特に、そこまでの性の目覚めはなく、年上のお姉さん達と話すときは、もじもじ照れていたと思います。
劇の時は役に徹して、普段は照れ屋、クラスでははしゃぎまくる……というギャップが受けたのかはわかりませんが、上級生にも好かれ、クラスの女子とも一緒に帰ったり遊んだりして、ちやほやされていたと思います。
ひがみがあったのか、ちょいとしめてやろうと思ったのかはわかりませんが、演劇部顧問の先生には野村佐知代さん的な嫌味を言われたりしたと思います。
あやふやな記憶で言葉は覚えていません。
しかし、「先生が嫌だから辞めてやる!」と思った私は、生物部に入りました。
ウサギは臭いけどかわいいなって思いました。
余談が長くなりましたが、その小学校5年の時の担任の先生が、演劇部顧問の先生だったのです。
生物学的にソリが合わないのか、怒られては反論したり、態度で不服を表したりした覚えがあります。
「反発」という感情で見れば、親以外では初めての対象だったと思います。
冷静に客観的に振り返ってみても、私が多分に悪いでしょうが、先生も年齢の割にはちと大人げない人だったと思います。
決定的になったエピソードがあります。
作文の授業です。
子供の頃から本を読むのが好き(この頃は赤毛のアンや大泥棒ホッツェンプロッツ、ルドルフとイッパイアッテナや宮沢賢治を読んでいました)で、塾で難しい読解文をやっていたせいか、作文は朝飯前でした。
やっつけでもなく、真面目に最速……15分くらいで原稿用紙2枚近くのを提出した際の一言です。
「ふざけてないで真面目にやりなさい!」
教師を殴りたいと思ったのは、この時が初めてだと思います。
ふざけるっていうのが、普段の授業態度の皮肉がこもっていたのは子供でもわかりました。
あてつけのように悩んだふりして、頑張ってうんうん言ったりして、誰よりも遅く作文を提出しました。
しばらくしても、先生との仲は険悪でした。
しかし、転機が何度もあり、卒業の時には先生含めクラスは一致団結していたと思います。
大して仲の良くなかったクラスメイトが車にはねられ、骨折してしまい松葉杖で学校に通いました。
ちょうど受験勉強も落ち着いて、真面目に毎日学校に通っていた頃の話です。
きっかけは覚えてないですが、何故かよく身の回りの世話をしたと思います。
階段の上り下りの時には、ランドセルを持ったり、着席起立の際には机をどかしたりとかしたと思います。
趣味の話で、「B’zが好き。るろうに剣心」が好きとかがきっかけで、無二の親友になりました。
ドラえもんの小さな消しゴムをるろうに剣心のキャラに改造して、ノック式のボールペンで明治浪漫ごっこで遊んでいました。
もう一人仲の良い「班長」と呼んでいた奴は、転校してしまいました。
入れ替わりのように転入してきた奴とも仲良くなりました。
最初はクラスに馴染めない感じだったと思いますが、ミニ四駆をきっかけに皆で遊んだと思います。
クラスに問題が起こりました。
受験で忙しく、一ヶ月くらい学校を休んだのですが、学級崩壊をするのがアイデンティティにしていた問題児が転入してきたのです。
久しぶりに来た学校の雰囲気が違うのに気づき、仲の良い奴から話をききました。
きっかけはうろ覚えですが、授業中のそいつの態度に私は激怒し、首を絞め落としました。
他校の生徒を喧嘩で泣かしたり、上級生に土下座させたり、生意気な下級生を絞め落としたり、私の方が問題児でした。
ただ、転校してきた問題児も色々と話をしたら、「俺も受験だ。お前、頭いいんだから一緒に××中に行こうよ」と誘われました。
親と塾の先生の都合で、「行ける」と言えなかったのを悔いた記憶があります。
余談が長いですが、感動的な話を書きます。
小学校最後の体育祭と文化祭です。
推薦か調子に乗った自薦か、多分両方だったと思いますが、応援団長をやりました。
その頃は学校に通うことは笑いに命をかけていたようなもので、ウッチャンナンチャンのコントにあったホワイティというオカマキャラのコスプレをしてメイクもして、とにかく盛り上げに盛り上げたと思います。
本題の文化祭です。
担任の先生は演劇部顧問のせいか、やたらと気合が入っていました。
私はその頃には主役より脇役の価値観に目覚め、不良Dとかいうちょい役をやったと思います。
主役を食うくらいの圧倒的個性を持つ脇役を目指したのだと思います。
劇の練習の時は、ヌンチャクを持参したり、チーマーのようにヘアバンドをしたり、同じくらい入れ込んだと思います。
すると、担任の先生が脚本をわざわざ書き換えて、セリフを大幅に増やしてくれました。
「不良のボスやってくれないから、セリフ直しとか色々大変よ!」
「劇が面白くなったからいいじゃないですか!」
この頃には、先生ともとっても仲良くなっていました。
他のクラスの先生も、主役含めた皆が「もっと目立って欲しい!」と後押ししてくれました。
学級崩壊常連の転校生も打って変わって、真面目に学校の行事に参加していました。
垣根を越えて、皆が楽しんだと思います。
時系列は狂いますが、図工後の休み時間に、筆を洗う水のバケツに赤い絵の具を溶かして「救命病棟24時ごっこ」で友達と遊んでいました。
「輸血!輸血! AB型の方はいませんかー?AB型の方はいませんかー?」
先生の言葉を今でも忘れません。
「本当にユニークで変わってるわね。その感性を大事にしなさい」
卒業文集の先生の書き込みも感動的です。
「クラスが一まとめになったのも貴方のお蔭です。人を引っ張る強力な力が貴方の個性です」
……先延ばしという本題からは大きくかけ離れてしまいましたが、「優先順位の狂い」こそが先延ばしの原因だと思います。
また、「認める=深い理解」「認められる」という本質の意味が大切だと思います。
小学校の時にクラスが一まとまりになったのは、個性をぶつけ合って違いに気づき、本心で「認め合った」からこそ仲良くなれたのだと思います。
もし、宿題の意味を深く理解していたら、字を綺麗に書くことの意味を深く理解していたら、もっと学校に通っていたら……今よりももっと理想に近い人間だったと思います。
しかし、塾を優先せざるを得なかった、楽しいクラスよりも受験を優先しなければいけなかった、地元の中学校よりも私立中学校を優先しなければいけなかった。
そこから大きく人生の歯車が狂い始め、優先順位も狂い、現実逃避の手段としての先延ばしというシステムが出来上がり始めたのだと思います。
次回も「先延ばし」について書きます。
「めんどくさいことが嫌い」か「快適でいたい」をエピソード重視で掘り下げようと思います。
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