2018年6月15日金曜日

ふざけるを考察と分析。らきすたとワンピース、横井軍曹


今日のテーマは「ふざける」について、考察と分析してみます。
ワンピース89巻の巻頭コメントの横井庄一軍曹問題もあるので、良いテーマかなと思ったからです。
手塚治虫先生の「マンガの描き方」に一つの紐解き方があるのではないかと思いました。


まずはエピソードから。
過去を振り返り、今の自分と照らし合わせ、「お笑い」の影響は大きかったなと思い、まとめてみました。
私が小学生の頃は、「第三次お笑いブーム」と呼ばれ、ダウンタウン・とんねるず・ウッチャンナンチャンなどが全盛期で、どこの番組を見ても彼等が出ていたような気がするほどです。


私は両親の影響で、幼稚園の頃から引っ越しが多く、親しい友達が出来ては数ヶ月で引っ越しというパターンが繰り返されていました。
幼ながら(どうやったら人が喜ぶんだろう?)とボーっと思っていたと思います。


小学校で転校してからは、卒業するまで通えたのは幸いだったと思います。
特に意地が悪い子もいなかったし、別のクラスでいじめをしてた悪ガキ達とも途中からは仲良く遊ぶようになっていました。

小学校中学年くらいから、受験勉強が忙しくなり、学校を休むことが多くなりました。
「学校の勉強をするくらいなら、塾に行け。塾の勉強をもっとしろ」と母親に怒られてばかりいた気がします。


少しだけ脱線しますが、3年生の頃だったと思いますが、一度塾のテストで酷い点を取りました。
義理の父があまり働かず、母も散財しがちだったせいか、欲しいものをねだらずに育ったと思います。
見栄を張っていたのか、虚勢を張っていたのか、「欲しいものは無い。何もいらない」と言うことが多かったような気がします。


ただ、どうしても友達の間で流行っていたスーファミのマリオワールドやマリオカートがやりたくて、やっとの思いで買ってもらったスーファミとソフトは、酷い点を取った罰として、母にハンマーで粉々に壊されました。
いくら泣いて懇願してもムダでした。

「ゲーム禁止令」が出され、大して好きでもない受験勉強を強いられ、毎日が鬱屈していました。
両親はいつも喧嘩ばかりしていました。


しかし、そんな私の支えになったのはお笑い番組でした。
母親が「ウッチャンナンチャン」義理の父が「とんねるず」が好きで、こっちは受験勉強をしているというのに、勝手にテレビに熱中していました。

昔の事なので、印象としか言えませんが、(あんなに喧嘩していた二人なのに、笑うと意気投合するんだなぁ)と感心した気がします。
気性の激しい母でしたが、とんねるずやナインティナインを見ると、子供のようにケタケタ笑い、機嫌もみるみるよくなりました。


私はダチョウ倶楽部の「押すなよ(準備中)絶対押すなよ(準備完了)」がたまらなく好きでしたね。
今、子供達にユーチューバーが流行っているのも、そう言った「確約された笑い=リアクション芸」を求めているからかもしれません。

母とテレビを思い出すと、「ナイナイのめちゃモテ、めちゃイケで岡村さんを見てはいつも笑っていた」のを思い出します。

今になって思えば、そんな母を見透かすように義理の父は、道化のようにいつもふざけていたのかもしれません。
ただ、喜ばせたかったのだと思います。



学校には通わないことが多かったですが、友達作りには苦労しませんでした。
男の子も女の子も……どうにも思い出せない、当時含めどうにも理解できないのですが、私といると皆笑っていました。
現時点では、答えが出ません。当時含め、何故、笑っているのか楽しそうにしているのかわからないからです。


前述の内容に出た別のクラスの悪ガキも犬の糞を弱い奴に投げつける、「いじめをやめろ」と止めに入った私に石を投げつけて怪我をさせるなどとんでもない奴でしたが、5年生のクラス替えの時にお笑いトークで皆とワイワイしてた時に、仲良くなった気がします。
その頃には、その悪ガキもいじめをしなくなり、クラスどころか学校中でいじめがなくなっていました。

当時、笑いによる「優越感」や「意識を自分に集める」という意識があったかは定かではありません。恐らくですが、無かったと思います。
自己評価が高いかもしれませんが、小学生の頃の自分はスレることなくとても純粋でした。


……ここまでは、お笑いの良い話ばかり書きましたが、よいことばかりではありません。

この記事を書くにあたって、「ふざける」の語源を調べて、愕然としました。
・冗談を言ったりしたりする
・人をばかにする
人を笑わせることは万能だと思っていたのですが、「人を馬鹿にする」という危険な要素も入っていたのかとショックでした。

元々備わっていたのか、刷り込まれて育ったのか、ハッキリまだ言えませんが、人を馬鹿にする傾向は、自分に多分にあると思います。
「相手の弱点を見つけ、馬鹿にすることで笑いに変え、自分の意見を正当化する」という手法がまかり通っていると思います。


ただ、いじめっ子がいじめをしなくなったり、コミュニケーションが苦手な引っ込み思案な男の子も女の子も「笑い」が中心になって、打ち解けあったのも事実です。

TPO、ケースバイケースは勿論ですが、いつからねじ曲がってしまった「笑いで意識を自分に集める。笑いで意見を正当化させる」というものではなく、いじめっ子もいじめられっ子も友達がいない子も楽しんだ「透き通ったような笑い」が自分の源流だと思います。


ここから先は、今話題の「ワンピース89巻巻頭コメントの横井軍曹炎上問題とふざける、手塚治虫先生の思い」を中心にまとめてみます。

事の発端は、ワンピース89巻の巻頭コメントにこう記したことから始まりました。


『みんなでごはん食べる時 最後に一つ大皿にぽつんと残ってる からあげとかあるよね。
あいつに名前を付ける事にしました。
横井軍曹と。
「横井軍曹残ってるよ! 誰か戦争を終わらせて!」的な。
わからないちびっ子は調べてね。
恥ずかしながら!! 89巻、始まります!!!』
(ワンピース89巻 巻頭コメント原文まま)

ひと通り調べてみて、個人的には「尾田栄一郎氏 横井庄一氏を笑いのネタにし炎上。不愉快極まりない」(livedoor NEWS)が一番しっくりきました。
ツイッターでも書きましたが、特に二つのコメントが秀逸でした。

「今までさんざん仲間や正義、弱者に対する優しさといった事をテーマに扱ってきた作品のはずなのに、なんでこんなコメントが出てくるんでしょうか」
「この作者コメントを読んで横井さんを知らない大勢の子供達が『横井軍曹ww横井軍曹っw』と大笑いするようになるのが、作者の希望なのでしょうか」
livedoor NEWSコメント抜粋

一方、「もう『よっこいしょういち』と云ってはいけない世の中になってしまったか」といったコメント」と言った中立に近い擁護の声もあがっています。

どの意見も見解の違いなだけであって、間違いはないと思います。
私もらき☆すたの「よっこいしょういち」に影響されて、重い物を持ったり座る時に、決めギャグとして使用してましたから。
尾田先生にはお会いしたことがないので推測しかできませんが、おそらく尾田先生も「こう表現したら面白いだろうな」と思い、「ふざけたかった」だけなのだと思います。ワンピースはギャグにも重きを置いている作品ですから。





昨日のどろろにも関連しているので、手塚治虫先生の話題をひとつ。
手塚治虫先生の「マンガの描き方」は非常に良い影響を与えているなと感じたので、重要な部分だけ抜粋します。

『漫画を描くうえで、これだけは絶対に守らなければいけぬことがある。
それは基本的人権だ。
(中略)基本的人権は茶化してはならない。

一、戦争や災害の犠牲者をからかうようなこと
一、特定の職業を見下すようなこと
一、民族や国民、そして大衆を馬鹿にするようなこと

この三つだけはどんな場合にどんな漫画を描こうと、かならず守ってもらいたい。
(中略)描き手側からも、読者からも、注意し合うようにしたいものです』
(手塚治虫「マンガの描き方」より抜粋)


……自分の悪癖ですが、笑いを優先して他人を蔑んだり、馬鹿にしたり、おちょくったりする傾向は多々あります。
もしかしたら、誰でも少しはそういう傾向はあるかもしれません。

不謹慎な笑いが始まる原点は、「認識のズレと認識の誤解」この二つに尽きるからだと自分は思っています。
大切なのは、「人間は間違う。認識と判断を修正、改善していく」ことに尽きると思います。

純粋な人を喜ばせたい、笑わせたいという思いはきっと尊いですから。
ワンピースで人生を救われたという人もいるくらいなので、それだけで良い影響・作品だと思います。
あくまで今回は、「認識のズレと認識の誤解」が火種になっちゃっただけなんだろうなぁと解釈しています。


認識のズレと認識の誤解を生まないようにどうすべきか……

言われた相手がどう思うか?
自分の発言・行動・影響力がどのように影響していくか?
この二つを人生を真剣に見つめなおしたい時に、神経と反応システムに刷り込むことが大切なのではないでしょうか?




手塚治虫先生は、「マンガの描き方」でこう書いています。
漫画の絵はウソを描くものだ
嘘・大袈裟・過剰表現(オーバーリアクション)があるからこそ、漫画は面白い部分があるんだなと学びました。
真実と嘘、事実と脚色、様々な表現手法……「表現の自由」という言葉も解釈次第でどのような意味にもなってしまいますからね。

「面白くするためなら何したっていい! 『表現の自由』だ」
まで行き着くと暴論でしょうから。

手塚先生が唱えた『描き手側からも、読者からも、注意し合うようにしたい』
自分が学んだ「人間は間違う。認識と判断を修正、改善していく」
この二つこそ、より良い人間関係とより良い社会を目指す一つの最適化なのではないでしょうか?

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