先延ばし体質の理由と原因4作目。
今回のテーマは、「先延ばし=快適」です。
前回は「快感」を中心にまとめましたが、「快感」と「快適」は似て非なるものだと思います。
「快感」と「快適」の違いを分析・考察するのはとても大事なので、前々回の記事もご参照ください。
まず、言葉の意味を調べてみました。
快感の意味:気持ちのいい感じ
快適の意味:心身に不快に感じられるところがなく気持ちがいいこと
(goo国語辞書)
私も同様の見解を持ちますが、「快感」と「快適」はどちらも気持ちの良さがあると思います。
ただ、脳と体の状態で見ると二つは大きく異なると思っています。
「快感=ドーパミン」
「快適=セロトニン、α波」
のような違いがあるなという見解を持っております。
テーマを先延ばしに戻し、先延ばしの要因を例にしてみます。
先送りすることが「快感」の場合でみてみましょう。
自分を振り返ってみると、先送りすることに快感の状態は、ゲーム・漫画・パチンコに代表されるように快楽欲求を本能が欲していると分析しています。
脳の状態で見れば、「ドーパミン欲求」です。
私のような駄目ウサギは、パチンコやゲーム、漫画などの「脳の快感」を求めてどっぷり浸かりすぎてしまった人間です。
「1万円使えるお金があるから、よーしパチンコいっちょやってみっか」
というどこぞのサイヤ人のように、オラワク(おら、ワクワクしてきたぞ!)状態です。
パチンカーさんやスロッターさん特有の傾向ですね。
私含め、強固に出来上がった回路との葛藤は凄まじいと思います。
脳は快楽に弱いですから。
本題の「快適」を分析してみます。
自分が快適だった状態を分析してみると一つの傾向が出ます。
「何もしない」状態が「快適」なのです。
「快感」と「快適」を二つの例を挙げて分析してみます。
ドラクエ(ドラゴンクエスト)の戦闘シーンがわかりやすいとおもいます。
ドラクエの戦闘は「たたかう まほう アイテム」などのコマンド戦闘です。
ターンバトル制なので、どんな凶暴なモンスターもコマンド選択が終わるまでしっかり待ってくれます。優しいですね。
外国では「リアリティがない」という声も挙がるシステムですが、ドラクエにはドラクエの良さがありますね。
すみません、話が逸れました。
結論を書きます。
「快感」の状態は、「ドラクエをプレイしている状態。ドラクエをプレイしようと決断した状態」で脳が満たされているのです。
ピコピコとボタンを押している状態も勿論快感ですし、ゲームを起動した瞬間から一定の快感が始まっていると思います。
脳がデジタルヘロインに支配されてしまうのです。
デジタルヘロインの記事は、エビデンスも混じえてまた別の機会にまとめます。
一方、「快適」の状態は、ドラクエのコマンドで言うところの「何もしない」という選択状態が「快適」なのです。
実際にゲームをプレイしている状態で見れば、オート戦闘やボタン連打でダンジョンを突き進んでいる時でしょうね。
この「何もしない」というキーワードは、「快適」を分析する上で重要なカギとなる言葉です。
次の例は「ひきこもり」で例えてみます。
「快感」の方は、「よーし、新しいゲームを買ったから、クリアするまでひきこもっちゃうぞー」
のようなひきこもり行為に快楽がつきまとう場合を指し示すと思います。
一方、「快適」の方は、「対人関係に疲れた」や「仕事に疲れた。明日はゆっくり休もう」のような静的な動きがつきまといます。
つまるところ、「不快」を避けることで「快」を維持しようとしているのです。
前説明が長くなりました。
それだけ「先延ばし=快適」は重要な組み合わせなのです。
そもそも何故、先伸ばすのかというと何らかのアクションが「不快」だからです。
誰でもそうだと思いますが、「出来ることは出来る。やりたいことはやりたい」のが人間です。
別の言い方をすれば、「やりたくないから先伸ばす。簡単に出来そうはないから先伸ばす」のです。
今になって振り返ってみれば、この「不快を避けることで快適を得る」システムというのが、自分という人生を生きる上で、大きく足を引っ張っていたと思います。
今回は論点が「先延ばし=快適」なので、これ以上は「快感」と「快適」の違いには触れませんが、またの機会に多方面・多角的に分析と考察してみたいですね。
勿論、エビデンス(根拠)も用意したいです。
行動パターン(動的システム)で私という人間を分析と考察した場合、私は快感を追求する場合、「何かに憑りつかれようになる=没頭」が快感な人間です。
習慣は恐ろしいもので、気が付けばゲームやパチンコなどあまり他人に誇れない趣味にのめり込んでしまいました。
何が良くないかは一言で言い表せます……「身体を動かさなくても快感を得られるから」です。
人間の「快」と「不快」は千差万別、十人十色。
経験という行動パターンの積み重ねで、人の数だけの違いが生じていると思います。
ある人は掃除をすることや片づけることが快適だし、ある人は掃除をすることや片づけることが不快です。
その「感じ方=神経の育て方」こそが、「人生にとっての最適化と言える快適さ」の作り方だと確信しています。
私のようなうさぎメンタルは、怠けることにセロトニン(快適さ)と遊ぶことに(ドーパミン)が出ます。
一方、嫌なことは勿論、めんどくさいことが不快(ノルアドレナリン)を感じます。
めんどくさいからと先延ばし、快適だからと日々をボーっと過ごし、快感だからと趣味に興じる。
どこまでも続ければ、人間としての破綻が訪れてしまいます。
ここからは改善方法と改善策を並べてみます。
前回も書きましたが、「決めたことを決めたとおりやる」のが最重要です。
言ってしまえば、越えてはいけない一線です。
ヒトがヒトでなくなり始める大事な大事な境界線です。
しかし、人は弱い生き物です。
デターミネーション(断固たる決意)を持ってしても、決めたことを決めたとおりできないのも人間です。
プロスポーツ選手が試合に活躍するために日々積み重ねているもの、トレーニング(=エクササイズ。反復訓練)こそ問題を解決するための「蜘蛛の糸」です。
何をトレーニングすればいいか?
大事な時に反応できるように、「動く癖」と極力動き続けるようにすることで、「動くための神経」を養うことです。
「運動神経」さえ特定のスポーツやトレーニングをしないと養えません。
つまり、プロスポーツ選手達は「最適な体の動かし方と反応」を日々磨いているのです。
では、私達のような駄目ウサギ達はどうすればよいのでしょうか?
日頃、嫌っていた遠ざけていたことを好んでやれる神経を養えばいいと私は確信しています。
つまり、神経システムと反応システムをパソコンのデータのように書き換える作業です。
私という駄目ウサギは、掃除や片づけのようなめんどくさいことを本当に嫌う生き物でした。
部屋は散らかりっぱなし、ゴミは溜まったら捨てる……怠惰という言葉がピッタリな人間です。
少しでも「めんどくさい=不快」を感じると、どんなことでも先伸ばそうとしてしまうのです。
ある時、お師匠様に「掃除と片付け」をしなさいと命じられました。
何度、怒られたかはわかりません。
しかしある時から、嫌っていたはずの掃除も片づけも前ほど億劫ではなくなり始めたのです。
新しい神経システムと反応システム、感じ方が育ち始めたんだなと思いました。
今でも、掃除や片付けを筆頭に、不快なことはおざなりになりがちです。
しかし、決めたことだけは守ろうと遵守するように決めています。
そして、少しでも良くなろうと改善と反省は怠らないように決めています。
これより後は、書きたいからこの文章を書くのですが、手塚治虫先生の「どろろ」のような気分です。
主人公の百鬼丸は、失われた体の部品を取り戻すために、魔神と呼ばれる魑魅魍魎達と命がけの闘いを挑み、ボロボロになりながらも自分の身体を取り戻していきます。
私のような駄目ウサギは、ちょっとしたことをするのにでも「百鬼丸どろろ状態(上記の意味。自分言語)」です。
旅立ち当初の百鬼丸は、作り物の身体です。
本当の身体ではないのです。
育ての親であり師の寿海(医者)は、百鬼丸にこう告げます。
「理不尽な苦しみや悲しみを背負う者達を見つけたら、そこには必ず『魔神』がいる」
人の苦しみや悲しみを糧として生きる魔神を倒し、本当の自分を取り戻そうと百鬼丸は旅に出るのです。
失われていた「本当の自分」を取り戻していくこと。
それこそが、すぐに堕落しがちなうさめん(うさぎメンタル)には、必要不可欠なことだと思います。
作られた感性。
作られた感情。
作られた感動。
を塗り替えるために。
おかしいことをおかしいと思い、喜ぶべきところで心から喜べる。
自然な笑顔があふれ出て、震えんばかりの感動に心が打ち震える。
正常な反応と感動を誰もが過ごせる世の中こそが、本来人間が生きるべき「世界」ではないでしょうか?
新しい自分(本来の自分)をつくり上げる作業は、苦痛と強い拒否反応が出ます。
今までに出来上がった反応システム、神経システムが、自分の身体を使って抵抗感を出します。
その存在こそが、「魔神」なのではないでしょうか?
何度もやめたくなります。
別に、今のままでもいいじゃないかという気持ちが頭をもたげます。
でも、ちょっとずつちょっとずつ亀のように歩みを続けることが、うさぎに足りなかったものだと感じています。
新しい感性が少しずつ育つのを実感した時、「百鬼丸もこういう気持ちだったんだろうな」と思っています。
少しずつ人間に近づくのは、いいものです。
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