2018年6月16日土曜日

タクティクスオウガ名言考察と分析。民と権利

ゲームの考察と分析シリーズ第一弾。
少しだけ前置きですが、何にしようか本当に迷いました。
絶品の料理を食べ放題に行った時のように、「何から食べる(書く)か、どれだけ食べる(書く)か」贅沢な悩みです。
贅沢な悩みってのはいいですね、私達一般人や一般大衆には程遠い悩みです。


悩んだ結果、「ファミ通の読者が選ぶTop20ランキングでスーパーファミコンの作品で唯一、長年に渡りランクインし続けているゲーム」のタクティクスオウガに決めました。
理由は、たまたまお師匠様とタクティクスオウガの話題になったので、「鉄は熱いうちに打て」ということで、記事コンテンツにさせて頂きます。


ズバリ、今回のテーマは「タクティクスオウガの名言から学ぶ『民と権利』」です。

まず、タクティクスオウガの魅力をエピソードも混じえて、語らせて頂きます。
ドラゴンボールと同じくらい文章に熱量がこもりそうです。

中学生の頃はそれはもうどっぽりゲームの魅力に取りつかれて没頭していました。
オウガシリーズとの出会いは、ネオジオポケットの「伝説のオウガバトル外伝~ゼノビアの皇子~」でどっぽりハマりました。

何がいいって、アニメの十二国記とも共通しているテーマですが、「王とは何か? 民とは何か? 王と民の違いは何か?」をテーマにストーリーを組み立てている部分だと思います。


ゲームコマンド特有の「説得」という主人公特権は、会話することで敵(モンスター)を味方にすることができます。
夢のドラゴンパーティーや実用性皆無の受け狙いタコさん(オクトパス)パーティーを作って、一人で悦に入ってました。

一番のお気に入りパーティーは、「サムライ、ニンジャマスター特化」の戦国パーティーでした。
ニンジャの連続行動とサムライのソニックブームが強いんだもん。
でも、ペット(ドラゴン)の名前は「マサムネ」とか名付けて喜んでました。



オウガシリーズのコンセプトは、「民族解放戦争」です。
当時(90年代)にしては斬新な「民族の違い」による「トラブル=紛争」を重すぎるほど重厚なストーリーに仕上げているのです。

伝説のオウガバトル外伝~ゼノビアの皇子~のストーリー概略は以下の通りです。
『巨大軍事国ハイランドのゼノビア侵攻による混乱は幾千の孤児、幾万の食い詰め者、敗残兵の軍を生み出していた。
彼らのうち力の無い者は地に沈み、力ある者は盗賊へと蔑まれつつ脅し奪う者として身を落としていた。
そんな折り、元ゼノビア騎士団長であった勇士エストラーダは彼の剣術の弟子2人だけを連れて野盗討伐に出る事を決意する』
(wikipedeiaより抜粋)


主人公のトリスタンが出会いと別れ、喜びと悲しみを経験していくうちに、強い意志と仲間達と共に街を解放していくのは本当に良かったです。

システム的に秀逸なのが、何気ない行動によって、「カオスフレーム(善悪のシステム)」をジャッジメントされるのです。

何気ない行動で「カオス(混沌)」「ニュートラル(偏らない)」「ロウ(法、規律)」に偏っていき、街を開放するときに喝采を浴びたり、ブーイングを浴びたりするシステムは秀逸でした。

ゲームシステムという形で、民衆に自分の行動が監視されてしまっているのです。
ある意味、現代社会を予見していたのかもしれません。

最初の頃は訳も分からず、どの街を開放してもブーイングされてました。
でもやっていくうちに、「良いことをしていたらアイテムまでくれる」ようになりました。

「行動の最適化」の思考プログラムは、確実にゲームの影響を受けています。
そして、ストーリーも分岐していくシステムは、携帯ゲームやSFCの容量や表現力で考えれば、一つのゲームの完成形と言っても過言ではありません。


……後日談ですが、この記事コンテンツをお師匠様にお見せしたのですが、意外なことをアドバイスされました。

「このゲームをプレイしたことで、当時に言語化はできなかったにしても、『何気ない行動で人に判断されることを』潜在意識は気づいていた。しかし、実生活には活かせなかった。その原因を究明しなさい」
と言われました。

んー、「ゲームはゲーム」だったとしかパッと思い浮かばないです。
タクティクスオウガは掘り下げていくので、一つひとつ自分の中の何気ない原因と理由を究明していきます。



では、本題の「タクティクスオウガ名言の分析と考察~民と権利~」を書かせて頂きます。
まずはストーリーの概略から。

『前作『伝説のオウガバトル』が大陸における大規模な戦争を、英雄譚として言わば寓話的に描いているのに対して、本作では小さな諸島の中での緊迫した小国家間の紛争をより低い視点で詳細に描いている。

小国間の紛争に島外の大国が介入するというストーリーは、ユーゴスラビア紛争を始めとする現実に起こった各地の民族紛争をモデルとしている。
日本には馴染みの薄い民族対立がテーマ。

劇中ヴァレリア島では多数派「ガルガスタン人」、支配層「バクラム人」、少数派にして被差別層「ウォルスタ人」がそれぞれ一つの陣営を形成して内戦を戦っており、民族浄化や強制集住など、その対立は非常に根深いものとして描かれている』
(wikipediaより抜粋)


本当に上手い文章ですね。
特に付け足すことはないくらい簡潔に説明しています。
タクティクスオウガの魅力は、現実にも当てはめられるような「民族紛争、民族対立という『民』とは何か? リーダー(王)とは何か?」を深く落とし込んだ作品なのです。

考察と分析をする前に、印象的な好きなセリフを挙げさせて頂きます。


聖騎士ランスロットの名言。
「きみたちのような若者が戦わなくともよい…そんな世界を築きたいものだな……」

アロセールの名言。
「民の意志を無視し、民を犠牲にして何が真の革命だッ!民族対立をあおり、あたかもそれが原因のように民を洗脳したのは誰だと思う。
やつら、貴族どもだ。
今、我々に必要なのは貴族による支配ではない。
民が自分たちで未来を決めることのできる社会だッ!」

主人公デニムの名言。
「苦しんでいる人々がすぐそばにいるんだよ、姉(カチュア)さん。
僕はそうした人々のために戦いたい。
なのに、姉さんはすぐに逃げることだけを考える。
自分のことしか考えられないのかい?」

災いのダゴンの名言。
「3万ゴートの金があれば…、娘の命を助けることができるのに…、くそッ」

セリエの名言。
「どんなに理想を掲げても、地に足がついてなければだめなのだ」
「空を飛ぶ鳥には、地に這う蟻の苦しみはわからない」


余談ですが、モンスターを売り払うことで、お金を稼ぐことができるのですが、モンスターの台詞も秀逸です。

「いいよ、気にすんなよ。俺もビンボーだったしさ」
感情に訴えるということで言えば、制作陣はとてもプレイヤーに良い影響を与えています。

ゲームとはいえ、やっとの思いで育てたモンスターをなくなく金のために売り払うのは、いい気分がしませんから。
金稼ぎに特化して、捕まえたモンスターを大量に売り払っていたとしても、「潜在意識」にそういう行為はどうなの?と訴える良いメッセージだと思います。


そして、主人公の父の最期のシーンも感動的です。




プランシー神父(デニムの父親)の名言。
『おのれを棄てろ・・・、大儀の為のいしずえとなれ・・・・・・。
現実をきちんと見すえて、よりよい選択肢をえらぶのだ・・・。
おまえは・・・・・・次の世代のために道をつくるだけでよい・・・・・・・・・
それを・・・ 忘れるな・・・・・・』

……選択肢というと良くない影響(別記事コンテンツにします)はあるのですが、「仲間のためにどうすればいい? 自分はどうしてもこうしたい! 全体のためにはどうすればいいのか?」

という人生にも通用する「可能性という選択肢」について、きちんと触れています。
好き勝手やっていると、姉は死ぬわ元・親友も死ぬわ、仲間の女性は凌辱されるは……生き地獄すらありえます。
更にエンディングで暗殺されたりもします。

……また後日談ですが、プランシー神父の名言の場面で、
「自分の立場、立ち位置は何かを深く意識しなさい。潜在意識と顕在意識を統一するんだ」
とアドバイスを受けました。


ストーリーの分岐(パラレルワールド)も秀逸です。
特に、プレイヤーの心を鷲づかみにした第二章は、目をつぶると思いだせるほどです。

(あらすじ概略)
『バルマムッサの街に収容された人々は、反抗しなければ虐げられることもないという考えから「現状維持」を掲げて武装蜂起を拒否。武装蜂起が拒否された状況を想定した第二案、「収容されたウォルスタ人を全員虐殺。ガルガスタン人にその濡れ衣を着せ、ガルガスタンの混乱を招くとともにウォルスタ人の結束力と士気を高める」という計画が実行に移される。

後続隊を率いるレオナールにその事実を知らされ、デニムは虐殺に荷担するか、しないか、という大きな選択を迫られることになる。
後に「バルマムッサの虐殺」と呼ばれるこの行動に対して選んだ答えによって、第二章以降の展開は分岐する。

虐殺を拒否し反逆、悲劇の首謀者として罪を着せられ解放軍などから追われる身となる場合と、虐殺に加担し計略は成功、引き続き解放軍のリーダーとして活動していく場合に分かれる。
また、虐殺を拒否した場合には、後に再び解放軍への復帰を勧められ、そこで復帰するかしないかで、第三章のストーリーが分岐する。
(wikipediaより抜粋)


老婆の名言。
「あんたたちが何もしなければ、平和な生活が続いたんだよ」
「解放軍だかなんだか知らないが、ただ、首がすげかわるだけじゃないか。
あたしたちには関わりないことだ」
「あんたたちと同じことを言ってた息子は半年前の戦争で死んだよ…あたしの息子を返しとくれッ」

ウォルスタ人強制収容所にやっとの思いで辿り着き、住民(民)達に武装蜂起を促すデニム達。
しかし、住民達はデニムの説得に応じなかった。
今の生活と状況に疲れきってしまい、立ち上がる気力がわかないのだ。
そして、「あんたが戦う(立ち上がる)からいけない」と言われてしまう。


師匠と呼ばれる聖騎士ランスロットは、「若者達が戦わなくてよい未来を望んでいる」のに民達は「立ち上がることを放棄」しているのです。
つまらないギャグではなく、「蜂起」という可能性の選択肢を「放棄」してしまっているのです。

大人になれば、老婆の言うセリフの意図を汲み取れると思います。
「悲しみのない満たされた平凡な暮らし」を望んでいるのに、他人の意志と行動で「平凡」が塗り替わってしまう。
タクティクスオウガの世界も私達の現実も同じではないでしょうか?
私も昔は「悲しみのない満たされた『普通』の人生」を切望していました。
ただ、愛する人達と日々を過ごしたかっただけでした。


続きます。
次回は二人のランスロットに比重を置いて、分析と考察をしてみます。
大袈裟じゃなくて、名言のオンパレードです。
これはもう自分に刻み込むために、何度も読み返したいです。

民と権利の詳しい考察と分析は、おそらくまとめの次々回になると思います。

0 件のコメント:

コメントを投稿