2018年7月12日木曜日
掃除の価値を考察と分析。学級崩壊という当たり前の認識
今日は「掃除の価値を考察と分析」させて頂きます。
ありがたいことになんですが、本業が本格的に忙しくなりそうな流れになり、ツイッターのフォロワーさん含め応援してくれる方達も少なからずいらっしゃるのもあり、忙しくもあり充実した時間を過ごせております。
自分はすぐに判断を間違えてしまうので、大事な時期だと思い、一つひとつを大切に取り組んでまいりたいです。
まだまだ、言葉が綺麗で行動が汚い部分が多々ありますけどね。
そんな自分をどこかにやらず、見過ごさず「言ってることとやっていることが一緒な人間」になれるよう日々精進してまいります。
今回は、方針と方向性をブラさないためにもエビデンスをしっかり盛り込んだ上で、記事を書かせて頂きます。
主に「ブロークンウィンドウ」を中心に、掃除の価値と生活習慣の影響についてまとめてみます。
まず、エピソードから書かせて頂きますが、私は本当に「自宅の部屋」を掃除する習慣がまるでありませんでした。
そもそも、母親も義理の親父も部屋を片付ける習慣が全然なかったので、散らかるだけ散らかったら、仕方なく気合を入れて大イベントのように掃除をするのが当たり前だった気がします。
10年経ったか経ってないかくらいで、一応の一人暮らしを始めたのですが、やはり掃除はほとんどしませんでした。
部屋が散らかりがちな方なら、ご納得頂けると思うのですが、「散らかっている方が物を探すのが便利!」という感覚が過去はありました。
「アレがあそこにあって、コレはここにある」
……そんな無意識の動きがとても自分にとっては、心地よく感じてしまうんですよね。
いつものように話題に出るお師匠様からあることを言われました。
「掃除、片付け、身だしなみを徹底しなさい」
自分がもっとも軽視してきたことばかりです。
掃除も片づけも身だしなみも「価値」を感じることが出来ませんでした。
「誰かが遊びに来たら、散らかってなければいいんじゃないかな」
「動線=最低限の動きが邪魔されない程度に片付いていればいいと思う」
「結局、他者の評価は状況によって変化するんだから、きちっとした時にきちっとした格好さえしていればいい。
むしろ、だらしない恰好をしている方が、『楽=快適』だから最低限着れれば十分」
……としか思えませんでした。
お師匠様が伝えたい真意を汲み取れていなかったなと実感しています。
今でも思い出しますが、言われ始めの私を突き動かしているのは義務感。
ただ、それだけのような気がしました。
ノルアドレナリン神経が明らかに優位になっている「不快」な状態で、「注意をされないように最高の最低限を尽くす」ことばっかり重視していたと思います。
抜き打ちの点検でいらっしゃったお師匠様が、烈火の如く私を指導した姿は忘れられないですね……
私も少しだけ経験を重ね、可能性がある若者を弟子のように指導したりもするのですが、人格が壊れてしまう激しく叱っても関係性が壊れないのは、私がどうこうというよりお師匠様の「人間関係の作り方と叱るタイミングと叱り方」を熟知しているからな気がします。
……とは言え、うさぎメンタルだから怒られちゃ凹み、怒られちゃ心を閉ざし、怒られちゃ怒り返し、更に怒られて頭が真っ白になったり、こんなことを書けるだけでも様々な特別な感情が湧きます。
「思い出」という存在です。
せっかくなんで、趣向を変えてエビデンスを間に挟みます。
ワンパターンにならない記事作りも大切なので、ここでエビデンスを挟ませて頂きます。
久しぶりに、前編と後篇に分ける二部作にしてみたいと思います。
ウサメンの劇的?ビフォーアフターな内容になるように作ってみます。
『街中の放置自転車のカゴに空き缶が一個放り込まれたら最後、日を追うごとに二個、三個と増えていきます。そしていつの間にか自転車のカゴがゴミ箱と化しているのを見かけます。
これを“壊れ窓(ブロークン・ウィンドウ)理論”と言います。
このように、放っておくとどんどん悪化してしまう様は子育てをする環境の中でも起こることがあります』
『“ブロークン・ウィンドウ理論”とは“建物の窓が壊れているのを放置すると「誰も注意を払っていない」という象徴になり、やがて他の窓もまもなく壊されていく”と言う意味です。
街中に壁の落書きがありますよね。
最初は一部だったのに1週間後に同じ場所を通ってみるとかなり大掛かりな落書きにその範囲が広がっていることがあります。
壁の落書きも放置すると、それが「誰も地域に対し関心を払っていない」のサインとなり、犯罪が起こる環境を作り出すことがあります』
『小学校で授業中、席を立ち歩いている生徒がいる、
私語が止まない、そしてクラスの半数の子が先生の話を聞いていない
……こんな状態の、いわるゆる学級崩壊しているクラスは全国で約10%あると言われています。
でも、小学生になって急に子どもが変わってしまうのではありません』
(「ブロークン・ウィンドウ理論に学ぶ!子どもが「片付けられない人」になる家庭のNG習慣」より抜粋。)
……次回に続くというのもあり、一旦エビデンスを区切ります。
たまには、寸止め的な「続きが気になる」記事をお届けしたいなと今回は思いました。
少しずつ、本当に少しずつですが、私のブログの記事を読んで「面白かった!」「凄く勉強になった」とおっしゃって頂ける方達も増えてきたので、同じ体温を感じられるように「現在進行形」の記事にしたいなと思ったのもあります。
今回の記事の論点からは少しだけズレますが、「何でだろう? どうしてだろう?」と思うことはとても大切だと私は考察と分析をしています。
「学級崩壊」のケースのように、端から見れば明らかな異常事態だったとしても、本人達からしたら「当たり前な日常」と大きな認識のズレが起きたりしてしまうのが私達です。
極端な例えですが、第二次世界大戦中の日本は「欲しがりません勝つまでは!」のスローガンのままに、食事がわずかの配給制になり、本当に食べるものがない地域だと少量の野菜やお芋を煮て食べたり、生のままの大根をかじったりする子供の写真が残っていたりします。
重要なことだから、もう一度書きますがそれが「当たり前」になってしまうのです。
初めてこの記事を読まれた方や偶然この記事を読まれた方、ツイッターや検索エンジンを通して定期的に読まれている方、皆様に大事なことをお伝えして今回の記事はまとめさせて頂きます。
「当たり前なことは本当に当たり前なのでしょうか?」
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