2018年7月21日土曜日

幻想水滸伝を考察と分析。本心の本心の価値

幻想水滸伝シリーズ第三弾。
今回はオデッサの兄にして、解放軍をトラン共和国にまで押し上げた立役者のマッシュ・シルバーバーグを中心に考察と分析してみます。

幻想水滸伝と言えば、諸葛亮孔明のような名軍師揃いですが、特にマッシュ先生とその弟子シュウさんが好きです。

シュウさんはちょっと自信家な感じはしますが、相手の思考と行動を読み切って勝つ安心感がありますが、マッシュ先生は根回しや準備が万全かつ不測の事態には、とんでもない行動力をするアグレッシブな印象もあります。



では、前置きは置いておいて、本題に入ります。
オデッサの遺言に従って、マッシュの住むセイカの村に着いた坊ちゃん達。
マッシュの家を探す場面から。





……シュールなギャグですね。
個人的には、幻想水滸伝Ⅰのギャグは結構好きです。
クスッとする笑いです。
シリアスな展開が多いですから、夏場の一陣の風のような清涼感があります。




グレミオ
『オデッサさんの ゆいごんで
ここに来ました。

オデッサさんは 最後に
このイヤリングを
あなたにわたすようにと言って・・』

マッシュ
『ゆいごん?
・・・・・・・・・・・・・・・

そうですか・・・・・
オデッサは・・・死にましたか。

良い娘でしたのに、
あんなことに首をつっこむから・・』

ビクトール
『あんなこと? 聞きずてならないね
オデッサのやってたことを
あんなことだってぇ?』

マッシュ
「ええ、ばかな娘です。
いつかは こんなことになると
思っていました。

イヤリングはうけとれません。
お帰りください』

……しつこく会いに行っても、とりつく島もありません。

マッシュ
「オデッサとわたしは
もうなんの関係もありません。
お帰りください。」




……マッシュの心が乾ききってしまっていますね。
マッシュは赤月帝国皇位継承戦争におけるバルバロッサ(帝国軍肯定)側の副軍師だったのですが、カレッカの虐殺事件後一切の官職を退き、セイカで寺子屋を開き隠遁生活を過ごしています。

セイカの村の寺子屋の子供達の台詞は、「マッシュ先生大好き! マッシュ先生みたいになりたい!」と純粋に慕っているのが素敵だと思います。




国のためを思い、虐殺に加担してしまった「消せない罪の意識」と
それでも国や若者達のことを思い、寺子屋で子供達に「教育」を行うマッシュ。

一般的には「贖罪」と評されると思うのですが、もう少し迫ってみます。





……酷い話です。
権力を笠に着て、やりたい放題とはこのことです。

挙句の果てには、バナーの炭鉱送りにするとまで脅す始末です。



それでも頑としてひかないマッシュ先生。
弱みを見せればつけあがることを知っているから言えるのでしょうが、心中は複雑だと思います。




頼れる頼れる正義の味方参上。
実際に、選択肢で「通りすがりの 正義の味方」という選択肢もあるほどです。

日本人だからか、勧善懲悪でシンプルな水戸黄門みたいな展開はスッキリしますね。
もしかしたら、当たりかもしれませんが、クレオってしょっちゅう「シャワー浴びたい」って発言ばかりしてるのですが、お色気担当の由美かおるさんポジションなのかもしれません。

魔術師の島に向かう時のテッドは、うっかり八兵衛な雰囲気ですし。

助ける時の台詞回しも私は好きです。

主人公「たすけるにきまってる」

ビクトール
「ようし そうこなくっちゃな」

クレオ
「まいったね。また やっかいごとかい。
 ぼっちゃんの おともはツライね」

グレミオ
「クレオさん。そんなこと言って。
 ほんとは よろこんでるくせに。
 さあ 行きましょう ぼっちゃん」


……普段はサバサバ、ハキハキしているクレオさんもたまには愚痴を漏らしていますね。
嬉しい悲鳴という奴です。その辛さが嬉しくてたまらない感じがするのが、幻想水滸伝Ⅰの固定メンバーの魅力です。

無事に子供達を助け出した坊ちゃん一行。
帝国兵の話で、マッシュがオデッサと同じ苗字なのが判明します。



マッシュ
『そうです。オデッサは・・
 オデッサ・シルバーバーグは
 わたしの妹です』

クレオ
『ではなぜ さっきはあんなことを?』

マッシュ
『わたしはね、もう二度と争いごと、
人と人が戦うような事に
関りあいにならないと、決めたんですよ。

でも、オデッサはちがった。
自分の信じるもののために、
その身をつねに戦いの中においた』


……優しさや愛情の表現の違いな気がします。
そして、とても大切な差だと思います。

よく私のお師匠様が、「何を軸にするのか?」という話を教えてくれるのですが、誰しもついつい自分を軸にしてしまいがちです。
争いの世界に関わらない、自分が傷つかないことで相手も傷つかない……一つの正解だとは思います。

詳しくは、マッシュ自身が答えを見い出しているので、このまま続けます。




マッシュ
『オデッサは言っていました。
力を持っているのに、
それを使わないのは おくびょうだと。

たしかにわたしは おくびょう者です。
でも、おくびょうと言われても、
やはり あんな場面を
もう二度と見るのはいやでした。

たとえ、あの娘に
兄として 認められなくても』

グレミオ
『あんな 場面?』

マッシュ
『みずからの行いで、
人が死んでいくこと。
それが 敵であれ、味方であれ』




『・・・でも、今日 わたしの選択は
まちがいだったと わかりました。

「まぶたをとじても、
世界がなくなったわけではないのです」

わたしも 今日 この日から、
彼女のめざしたものを めざしましょう』


……いいセリフですね。
以前別の記事でも書きましたが、攻殻機動隊の草薙素子少佐の台詞に通ずるものがあります。



「世の中に不満があるなら自分を変えろ
其れが嫌なら耳と目を閉じ、口をつぐんで孤独に暮せ」

実際に、マッシュは「目も耳も閉じ隠遁とした生活」を過ごしています。

しかし、口は閉ざせませんでした。
子供達に教育を施していましたから。

耳も塞げませんでした。

『わたしには帝国軍に何人か
友人がいるものでしてね、
そういう話は伝わって来るんですよ』

の台詞通り、どんなに耳を塞ごうとしても「自分に関連した情報」は入ってしまうんですよね。




そして、目も塞げませんでした。
自分の寺子屋の教え子が炭鉱送りにさせられてしまいそうになるのと同様に、今もどこかで誰かが苦しんでいる。

償いきれないかもしれない心の傷があったとしても、前に進もうとする強い「意志」
それこそがシルバーバーグの強さなんだと私は思います。

マッシュ自身の本心は「もう争いに関わりたくない」が本心だと思いますが、「見て見ぬ振りが出来ない。目をつぶっていても現実は変わらない」が本心の本心だったんだと思います。

寺子屋の先生という「立場」から、「解放軍の軍師」の「立場」を選んだマッシュは、目の前の子供達だけを救おうとするよりももっと大きく救おうと「決断」したのだと思います。

幻想水滸伝シリーズ第一章はこれにて完結ですが、追ってまた書いていきますので、末永くよろしくお願いします。




最後に、私の大好きな幻想水滸伝のオープニングのメッセージを記載します。

『おしえてください 運命とは、定められたものでは…

いかに無力を感じようとも、人は意味なき存在ではありません』

……この「意味なき存在ではない」という台詞がとても好きです。
人は生きて、誰かに何かに影響をするだけで、とても価値のある存在なのだと私は思います。


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